2026年10月23日、Mrs. GREEN APPLEの新曲『シンデレラ』のミュージックビデオが公開された。企画・脚本・監督を担当したのは大森元貴。彼にとって初めてのMV監督作品だ。
公開後、Xでは女性の描き方や職業設定をめぐって批判と擁護の声が広がり、複数のメディアが「炎上」と報じた。
では、そもそも『シンデレラ』は本当に炎上したのだろうか。
僕はMV本編とBehind the Scenesを見て、作品が描いているのは夜の仕事そのものへの賛否ではなく、誰かになりたいと願いながら、理想と現実のあいだで揺れる人間の姿ではないかと感じた。
もちろん、それだけで批判がなくなるわけではない。今回は批判の背景も正面から整理しながら、『共犯』とのつながりや大森のインタビューを通じて、今のミセスがどんな表現に向かっているのかを考えてみたい。
『シンデレラ』MVは炎上したのか
結論から言えば、SNSで異なる立場からの批判が広がり、メディアでも大きく取り上げられたという意味では、「炎上」と呼ばれた状況は確かにあった。
ただし、批判は一枚岩ではない。東洋経済オンラインの2026年10月27日付の記事でも、夜の仕事を美化しているという批判と、その批判自体が職業差別ではないかという反論が併存していたことが紹介されている。
問題視されたのは、キャバクラで働く女性という主人公の設定だけではない。経済的な困難、男性客との関係、幼少期の記憶といった要素を組み合わせた描き方にも疑問が向けられた。
一方で、職業に関係なく自分の現実と向き合う物語として受け取った人もいた。作品の批評を超えて制作者個人の人格を攻撃するような反応も見られたが、作品への批判と個人への中傷は分けて考えるべきだと思う。
ここで注意したいのは、Xで目立った批判が、そのまま視聴者全体の多数意見を表しているとは限らないこと。「炎上した」という言葉は、意見の量や割合、作品の評価まで確定させるものではない。
キャバクラという設定は何を描くためのものだったのか
MVで描かれるのは、幼い頃にプリンセスに憧れていた女性が、大人になってキャバクラで働く姿だ。華やかな衣装や空間の一方に、思うようにいかない生活と記憶の断片が置かれている。
僕が見た限り、この作品はキャバクラという職業自体を明確に肯定しているわけでも、否定しているわけでもないように感じた。物語が向き合っているのは、「主人公がどこで働いているか」以上に、「主人公が自分をどう見ているか」ではないだろうか。
ただし、ここには批判側の重要な論点がある。夜の仕事を描く際に、貧困や承認への渇望を結びつけると、現実に働く人々についてのステレオタイプを再生産してしまう可能性がある。個人の意志や誇りをもって働く人たちの人生は、ひとつのフィクションに回収できない。
大森は制作にあたり、実際にキャバクラで働く人へのヒアリングも行ったと報じられている(Billboard JAPAN)。その姿勢は制作背景を理解するための材料になるが、取材をした事実と、映像表現がどう受け取られるかは別の問題でもある。
公式MVをまだ見ていない場合は、まず本編を見てから読み進めてほしい。
Behind the Scenesが示した「理想」と「現実」
MVをより深く理解する手がかりになったのが、公開後のBehind the Scenesだ。大森が企画・脚本・監督を務め、具体的な美術や演技の指示まで関わったことが紹介されている。
特に印象的なのは、実写とアニメーションを使い分けた意味だ。制作背景を紹介したUSEN encoreの記事によれば、主人公が夢見るアニメーションの世界は、彼女が思い描く理想像、すなわち「虚像」として作られている。
制作側の説明では、オリジナルのキャラクターデザインと背景をアナログで描き、モーションキャプチャーで収録した動きをAIに読み込ませ、その後さらに人の手で細かな調整を加えている。AIだけでアニメーションを完成させたわけではなく、複数の制作工程を組み合わせた表現だ。
その狙いについて制作情報では、従来のアニメーションとは異なる独特の質感を生み出し、美しく理想的でありながら、現実とはどこか異なる「違和感のある『虚構』の世界」を表現したと説明されている(USEN encore・2026年10月26日)。
つまり、実写とアニメーションの差は単なる映像上の華やかさではなく、主人公が夢見た世界と、実際に生きている世界の距離を表す仕掛けとして読むことができる。
美しい理想が虚像であったとしても、それに憧れた気持ちまで偽物になるわけではない。僕たちも「いつかこうなりたい」という像を思い描きながら、その通りにならない日常を生きている。
生成AIの使用と「ディズニーに似ている」という批判
アニメーション部分については、生成AIを使用したこと自体への批判や、ディズニー作品に似た絵柄ではないかという指摘も出た。Mrs. GREEN APPLEは2025年と2026年に東京ディズニーリゾートとのコラボレーションを行っていることから、その関係を引き合いに出す意見も報じられている(Smart FLASH・2026年10月29日/Mrs. GREEN APPLE公式・2025年コラボ発表)。
ただ、ディズニー作品に似ているという印象と、特定の作品を学習に用いたという事実は別だ。今回確認した公開資料だけでは、AIの学習データの詳細までは分からない。
ここで僕が注目したいのは、制作側がAIを使った理由を、映像表現の文脈で説明していることだ。主人公が夢見るのは、美しいけれど現実とは異なる世界。その「虚像」を描くために、手描き、モーションキャプチャー、AI、人の手による調整を重ね、独特の質感と違和感を作り出したとされている。
僕は当初、アニメーションの少し人工的な見え方も、理想と現実の距離を示す演出として受け取った。制作側の説明に触れると、それを単なる技術上の未熟さや手抜きと決めつけるのは難しいと感じる。ただし、「わざとチープにした」と本人が語ったわけではなく、制作費についても公表資料からは判断できない。
もちろん、AIの学習データや既存作品への類似性を問題として考えることと、演出意図を理解することは両立する。制作意図を知ったからといって批判がすべて解消されるわけではない。
それでも、何の技術を使ったかだけでなく、なぜその技術を選び、どんな世界を描こうとしたのかまで見てから、作品への評価を考えたい。
僕が『シンデレラ』の主人公に共感した理由
僕自身、今でもなりたい姿がある。若い頃にもあったし、今も何かを追い求めている。
その一方で、誰かが自分より先へ進んでいると感じたり、他人が持っているものを羨ましく思ったりすることもある。嫉妬という感情は、年齢を重ねても簡単には消えなかった。
『シンデレラ』の主人公とは、性別も仕事も生きてきた環境も違う。それでも、誰かになりたいと思うことと、今の自分を受け入れることの難しさには共感できる。
だから僕はこのMVを「特定の職業の女性だけの物語」としては受け取らなかった。境遇が違っても、歌詞や映像にある感情の一部分に、自分自身を見つけることはできる。
もちろん、これは僕自身の受け取り方だ。別の立場から見た人が違和感を覚えたとしても、そのことを否定する理由にはならない。
『共犯』から『シンデレラ』へ――フェーズ3のミセス
もうひとつ考えたいのが、同じアルバム『POPS』から先に公開された『共犯』とのつながりだ。『共犯』のMVは2026年10月3日に公開され、その後、10月23日に『シンデレラ』が続いた(『共犯』公式情報/『シンデレラ』公式情報)。
『共犯』にも、鮮やかでポップな見た目の内側に、シリアスで不穏なものが潜んでいるように感じられた。そして『シンデレラ』では、理想の華やかさと現実の苦しさが、異なる映像表現としてぶつかり合う。
フェーズ2でミセスは幅広い支持を獲得し、明るく前向きなバンドというパブリックイメージも大きくなった。しかし、暗さや矛盾を含む楽曲は以前から彼らの作品に存在していた。
だからこの2曲を、突然の方向転換とだけ呼ぶのは違うと思う。これまでにもあった内省的な側面が、より強いかたちで表に出てきた、と読むこともできる。
大森元貴が語る「フェーズ3」の現在地
この読み方に重なるのが、大森本人の発言だ。
2026年9月30日付のデイリースポーツのインタビューでは、フェーズ2を多くの人に知ってもらうための時期と振り返り、フェーズ3では届いた人たちとの関係をより深めることを意識していると説明している。
また、Skream!の『POPS』インタビューでは、バンドの現在地やその時々に作りたいものを大切にしつつ、内省と今後の展望を共存させたいという考えが語られている。
この発言は、『シンデレラ』が意図的に炎上を狙った作品だったことを意味しない。ただ、幅広い人に届く表現と、自分たちが本当に作りたい表現を同時に追い求めているという現在地を知る手がかりにはなる。
『共犯』と『シンデレラ』の連続には、そうした今のミセスのムードが映っているように僕には感じられる。
『POPS』の広告が投げかけた「確かめよう」という問い
アルバム『POPS』の発売時、ミセスは街頭広告でも大胆な問いを投げかけていた。「みんなが聴いているから好き?」「みんなが聴いているからダサい?」といったコピーだ(オリコンニュース・2026年9月28日)。
10月12日放送の『ミセスLOCKS!』放送後記で、大森自身もこの広告について「すごく攻めてた」と振り返った。そのうえで、SNSのアルゴリズムによって自分の好みに沿う情報が届きやすい時代だからこそ、好き嫌いを決める前に、まず音楽を聴いて確かめてほしいという考えを話している。
僕は『シンデレラ』をめぐる反応を見ながら、その言葉を思い出した。SNSで目にした評価に触れることと、実際に作品を見て、Behind the Scenesで制作の背景まで知ることは、同じ体験ではない。
もちろん、作品を見たうえで批判することにも意味がある。見方が違う人の意見を排除したいわけではない。ただ、一方向の評価だけが広まり、別の受け取り方に触れにくくなる状況には、脆さを感じる。
『POPS』の広告と『シンデレラ』のMVが同じ狙いで作られたと、本人が明言したわけではない。それでも、広く支持されるようになったミセスが、自分で見て、聴いて、考える余地のある表現を続けていることに、僕は関心がある。
誰にとっても誤解のない、白黒のはっきりした表現だけを選ぶのではなく、危うさを含むテーマにも向き合い続けてほしい。もちろん批判すべき点があれば、それも含めて受け取っていきたい。
『コロンブス』の騒動と同じなのか
今回の批判には、2024年に公開停止となった『コロンブス』のMVを引き合いに出す声もあった。ユニバーサル ミュージックの発表と大森本人の説明では、当時の表現への配慮不足について説明と謝罪が行われている。
過去の経緯があれば、新たなMVの表現に厳しい目が向くことは理解できる。ただし、『コロンブス』で問われた歴史・文化的な表現と、『シンデレラ』で問われている女性像や職業描写は、まったく同じ論点ではない。
過去の問題を忘れるべきではないけれど、個々の作品の何が問われているのかは、具体的に見ていきたい。
制作意図を理解しても、違和感が消えるとは限らない
ここまで肯定的な読み方を中心に書いてきた。それでも、批判側の論点には向き合う必要がある。
夜の仕事をする女性の人生を、経済的な困窮や男性からの承認への渇望と結びつけることが、現実の多様な生き方を単純化してしまうのではないか。東洋経済オンラインの別の論考でも、題材の複雑さに対して描写が類型的ではないかという問題提起がなされている。
制作者が真剣に作ったことと、出来上がった映像が誰かに違和感を与えたことは両立する。制作の舞台裏を知ることで意図への理解が深まっても、すべての批判が無効になるわけではない。
だからこそ、僕は作品を擁護するために批判を退けるのではなく、何が描かれ、何が描かれなかったのかを考えたい。
『シンデレラ』は、誰かになりたいと願う人の物語なのかもしれない
今でも、僕にはなりたい自分がいる。誰かに嫉妬することもあるし、目の前の自分に満足できないこともある。
それでも理想を持つことをやめたくはない。
『シンデレラ』の主人公が置かれている状況を、僕がすべて理解できるわけではない。ただ、その揺れる感情の一部分には自分を重ねることができた。
夜の仕事をめぐる描写への批判は、作品を考えるうえで欠かせない。一方で、主人公の職業や性別を超えて届く感情が、このMVにはあると僕は思う。
『共犯』から続く表現を見ても、今のMrs. GREEN APPLEは、明るさだけでなく人間の矛盾や暗さを、よりはっきりと描こうとしているように感じる。
僕にとって『シンデレラ』は、「炎上したMV」という言葉だけでは語りきれない作品だった。
大森元貴の楽曲に一貫する「弱さ」というテーマについては、SOLITUDの関連記事「大森元貴はなぜ弱さを歌う?「僕のこと」から「シンデレラ」まで」でも掘り下げている。
参考・出典
- Mrs. GREEN APPLE公式:『シンデレラ』MV公開
- Mrs. GREEN APPLE公式:『シンデレラ』MV Behind the Scenes
- Billboard JAPAN:MVの制作背景
- USEN encore:Behind the Scenesとアニメーション表現
- 東洋経済オンライン:夜職描写をめぐる賛否
- 東洋経済オンライン:批判的な論考
- デイリースポーツ:大森元貴インタビュー
- Skream!:『POPS』インタビュー
- Smart FLASH:生成AIとアニメーションへの反応(2026年10月29日)
- Mrs. GREEN APPLE公式:東京ディズニーリゾートとのコラボ(2025年)
- ミセスLOCKS!:大森元貴の『POPS』広告に関する発言(2026年10月12日)
- オリコンニュース:『POPS』の広告コピー(2026年9月28日)
- Mrs. GREEN APPLE公式:『コロンブス』についての説明
※2026年11月1日時点で確認した公開情報と筆者の作品解釈をもとに構成した記事です。作品の意図に関する記述は、本人や制作側の発言と筆者の解釈を区別しています。



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